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2012.04.12

「てにをはレビュー」の是非

 設計書のレビューにおいて、技術上の問題ではなく文章の細かい不備ばかりをあげつらう。そんなやり方が「てにをはレビュー」と皮肉られることがある。問題があることは明らかだが、話はそれほど単純ではない。

 まずそれは、他人がテニヲハしか指摘できないような「文書様式」の問題なのかもしれない。たとえばExcel方眼紙あたりで書かれた設計書の場合、レビューではせいぜいテニヲハしか問題にできない。設計要素間の相互関係が見えにくいため、技術上の妥当性を検証しにくいからだ。組織的な設計品質の向上を図りたいなら、設計要素間の関連が一目瞭然となるような様式がまずは用意されなければならない。

 とはいえ、理想的な様式を用意できたとしてもテニヲハが問題にならないわけではない。図面主体のものであっても、文章での説明が要らないわけではないからだ(図)。それは料理に添える薬味のようなもので、少量であっても質の高いものが求められる。設計書にも、簡にして要を得た文章が適宜求められる。もちろん、簡にして要を得た文章は、「簡」であるゆえ簡単というものではない。ダラダラと言葉を連ねることが許されないという意味では、よりスキルやセンスが要る。

20120412

 じっさい文章の量に関係なく、設計書というものは「技術的妥当性の論述」や「設計要素の客観的説明」を含めた論述課題のようなところがある。設計者に文章力を含めた広範な表現力が求められるのは致し方ないことだ。だから、文章を書くことに苦手意識があるなら、この仕事向けの職業適性があるとは言いがたい。読書習慣のない人も向いていない。技術の学びがおろそかになるだけでなく、十分な語彙や自然な構文感覚が身についていないからだ。

 そういうわけなので、稚拙な文章を書く技術者は「鼻毛を伸ばしたままでお見合いに臨む人物」である。本質的でない部分ばかりが悪目立ちするので、ひどく不利な立場に置かれている。文章力は人と会うときのエチケットやマナーであって、それがなっていなければ相手のふところに飛び込むことはやはり難しい。この意味で、内容は伝わるが文章そのものの印象が残らない文章――それが技術者が目指すべき「良い文章」だ。

 無能なレビュワーは、技術者が書く悪文のおかげで地位が安泰であり続ける。印象の残らない文章(良い文章)で綴られた設計書。そういうものを渡されない限り、彼らの無能さはバレない。あなたが「くそー、テニヲハのことばかり言いやがって。見るところ違うだろ」とムカついている限り、彼らは扶助され続ける。無能なレビュワーを駆逐するためにも、技術者は文章力を磨いたほうがいい。テニヲハしか問題にできないExcel方眼紙もやめたほうがいい。

本ブログでの関連記事:
「設計情報の構造」に現れる設計品質

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コメント

文章の質は、書く人がコンピュータを相手に伝えようとしているのか、人間に伝えようとしているのかで、全然違うような気がします。
コンピュータが動けばそれでいいやと考えている人に文章表現の指摘をしても、嫌がられるだけで上達しないし、こちらも空しくて疲れるだけ。
ああ、人間を説得する文章を書かなきゃいかないんだと本人が気づけば、次第に良くなってきますね。
しかし、システム開発では、形だけの読まれない仕様書が多すぎますね。それでは、文章を軽視する文化が根付いて当然です。

投稿: keis | 2012.04.12 13:19

keisさん

そうですね。私も昔は文章の重要性をやかましく言って嫌がられたものですが、今となっては無駄だったと思います。けっきょく書き手自身の自覚を待つしかないんですから。そして、「他人向けの文章」を書けないひとは「他人向けのコード」も書けない。それってソフトウエア開発者としてはヤバい。文章の重要性、周知されてほしいものです。

投稿: わたなべ | 2012.04.12 22:09

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