自由裁量は有能さを映し出す鏡
先日、ある工場の現場を案内してくれた方が、歩きながらこんな話をしてくれた。ある若者が製造技術者になったとき、新しい工法を生み出して会社に大きな利益をもたらしたそうだ。理由としてそのひとは、彼にもともとそのような適性があった点と、その工場が金型を自社でまかなっている点とを挙げた。
金型を自社でまかなえるメーカーは強い。金型製作のコストを抑えられるだけでなく、金型の仕様を含めて工法の改善を試行錯誤できるからだ。金型製作はまさに製造過程における「上流工程」なのである。その若者は金型を工夫しながら新しい工法を模索できる立場にいたし、それをやれるだけの適性も持っていたということだ。
彼はその後に他社へ移ってしまったそうなのだが、移った先の工場では金型は外作されていたために才能を生かせなかったらしい。久しぶりに会ったとき彼は「転職しなければよかった」とボヤいていたそうだ。「すごい子だったんですけどね。今はふつうのサラリーマンになっちゃってました」と、説明してくれた人は残念そうに話した。
こんな話も聞いた。コンピュータで工程計画を出すようにしたら現場からの反発があったそうだ。それは「とにかくこの期間でこれだけを作ればいいから、細かい日程計画については自分で考えてやりくりして進めてほしい」といった調子の計画だったからだ。それを受け取って嬉々として自分で計画を立て始めて実施する者もいるにはいたが、日々の動きまでも指示されなければ動けない者のほうが多かった。それでけっきょくは細かいレベルの指示書を出すことになったそうだ。
こういう話を耳にしても、人の有能さは「自由裁量に対する姿勢」として現れると思わされる。また、自由裁量の怖さも感じさせられる。自由裁量を生かせるかどうかで、その人の職業的適性や一般管理能力が露出されるからだ。当然ながら、リソースを自由に扱うための「権限」には「責任」も伴う。そして、権限と責任に応じた自由裁量にもとづいて企画し実行した結果に対して、ひとはグチることができない。それでもキミは自由裁量を望むだろうか。
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