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2006.11.05

異質なものなんて愛せない

 いじめによる自殺がしばしば報道されている。痛ましい。筆者も子を持つ親なので、学校で起きているいじめ問題の話し合いに参加したことがある。関係者が誠実に努力しておられることもよく知っている。

 いじめが起こったときに対処するための体制を整備しておくことも大事だが、いじめが起こらないような日常的な教育がなされることのほうが大事だ。そんな文脈で、子供たちに「異質なものに対する抵抗力(というか愛というか)を涵養すべし」みたいな主張を聞くことがある。言うは易しだ。なぜなら、我々は異質なものを愛せないように出来ているからだ。

 聖書に「あなたの隣人を愛しなさい」とあるが、それは「博愛のススメ」ではない。

 この場合の「隣人(となりびと)」とは「ご近所さん」とかの意味ではなく「たまたま隣に居合わせた人物」のことだ。電車でたまたま隣に居合わせる人物をイメージすればわかりやすい。その人物をあなたは選べない。つまり、あなたの趣味や嗜好とは無関係に、あなたの隣には「好ましい人物」も「イライラさせられる人物」も「なんの感情も引き起こさない人物」も居合わせる。

 「好ましい人物」を愛することなんて命ぜられるまでもなくできるし、「なんの感情も引き起こさない人物」を愛することも難しいことではない。だから、「あなたの隣人を愛しなさい」とは、わかりやすく言えば「電車でたまたま隣に居合わせたイライラさせられる人物を愛しなさい」というメッセージである。

 想像してみれば1秒でわかるが、そんなことできっこない。聖書はできっこないことを命じている。そして、それができないなら神の国に入れないと言っている。それを読んで自分の愛の欠乏具合に絶望するしかない。じつは聖書が語ることの深さはその先にあるのだが、それはこのエントリーのテーマではない。

 いじめの話だ。いじめは学校内の「異質なもの」に対する忌避感情によって起こる。人は異質なものに「好奇心」を持つかもしれないが、高い確率で「忌避感情」を抱く。それは悲しいほどに人間の「自然」だ。気の合う仲間といっしょにいることで心理的に安定したい。そんな感情が大人たちより子供たちのほうが強いということはない。そんな自然な感情にもとづいていじめは起こる。だから、「異質なものに対する親和力」を高めようとする努力の多くは失敗する。それは「電車でたまたま隣に居合わせたイライラさせられる人物を愛しなさい」と指導するのと同じ話だからだ。

 せいぜい私たちにできることは、自分の「異質なものに対する愛の欠如ぶり」を認めて絶望することだ。ああ自分はこの人物にイライラさせられる。そんな居心地の悪さを感じながら、自分を「いじめの当事者になり得る者」として見つめる。また、いじめの標的にならないように自分の内の異質さを圧し殺したいという、歪んだ「当事者感情」を意識する。

 それがなされないからこそ、客観的にはいじめに見える行為が、関係者にはいじめと認識されずに潜行する。「いじめじゃないよ。だってほら、あの子、笑ってるでしょ」みたいな和気あいあいとした雰囲気の中で「いじめでないいじめ」は起こり得る。ぼくらは皆、愛が足りないうえに陰険だ。そしてそれは直らない。しかしそんな自分の体たらくを見つめるための知性が与えられている。それを行使するしかない。

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コメント

 私には子供はおりませんが、もしいたらばこのいじめという現象に対して自分はどうアプローチするか考えたことがあります。
大勢としては、いじめそのものを無くすにはどうしたらよいのか?という角度でのお話しが多いかと思います。自分が標的になったらどうしよう、そうならない為にはどうしたらいいのかという恐怖心も基底にあるかと思います。

 いじめは人間の本能に基づいているのでなくすのは不可能ではないかという渡辺様のご意見ごもっともと思います。
子供の社会だろうと大人の社会だろうといじめは古今東西、存在しておりますので。

 そうしますと、厳然と存在するいじめにもし自分の子供がまきこまれたら、どのように対処するよう導くことができるかというのが命題になります。
 いざ事が起こってからより普段からそれとなく伝えられたらと思います。

1:ケンカは自分より強いやつとやれ。
これは私の父より教えられた価値観、美意識ですw
すなわち自分より弱いひとをいじめるのは人間としてどうか?という意識であり、
自分をいじめてくるやつは人間として弱い部分があるという客観視ができればしめたものです。

2:敵は多ければ多いほど面白い。
これは勝海舟の言葉だったと思いますが、けだし名言。
いじめに限らず、何かをしようとすると困難や意味不明な妨害や障害があったりします。
しかし、そこで腐らずそれを面白し!と考えられればしめたものです。

3:逃げろ!自分の命だけもって最大戦速で逃げろ!
引くも兵法です。これ以上我慢できんと思ったならば、全てを捨てて脱兎のごとく逃げなさい。
地震でも火事でも人間関係でも同じです。
命一番ということを、生きてさえいれば何べんでもやりなおせるほど、充分に世界は広いということを理解してほしいです。
カネなら返せん!と胸を張る人間になってくれればしめたものです。

このようなことどもを問わず語りに教えて、多少いじめられても屁でもない人間に育ってくれたらと考えたりしました。
仮定の話しならなんとでも言えるといえばそれまでですが、どんな苦境にあっても人間にはその捉え方を変える力があると私は信じています。最近のいじめも陰湿化が激しいと聞きますので、その精神的苦痛も並ならぬものがあると思いますが、
自分と世界を相対化できるほど成長できるまで、何とか生き延びてほしいと思います。
世の中には本当に素晴らしい人間が山ほどいるということを知れば、自分と世界に対する見方も変わるような気がします。

最後に、
半年ほど前にXEADを知りました。
設計情報のレファレンスモデルという思想と三要素分析法、XEADというツール、素敵です笑。
オープンパッケージも期待大です。
そのうちXEADによる設計モデルの一般投稿コーナー(あるいは販売?)ができるといいですね。
このようなツール、設計手法を無償公開された英断に感謝いたします。

投稿: タコ次郎 | 2010.07.15 18:53

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