« 詳細設計とコーディングの融合 | トップページ | MIDIソフト「ソルファノート」公開 »

2005.10.01

「設計情報の構造」に現れる設計品質

 私を日本語に上手は使えます。

 こんな文があったら読者はどう感じるだろう。これには「書き手は日本語が上手いわけではない」というメタレベルの情報が含まれている。この文が「私は日本語が上手に使えます」の意味で書かれたものならば、読み手は混乱する。少なくとも書き手の日本語能力が信用されることはないだろう。

 同じことがシステム設計に関しても言える。設計情報そのものの構成の巧拙に、設計者自身の設計能力が示されている。どんな業務や業種を対象にしているかに関係なく、設計情報そのものがうまく構造化されていないことが、システム要件に対してうまく設計がなされていないことの間接的な証拠となる。

 仕事柄、いろいろな設計書を目にするが、ざっと眺めるだけで設計者の実力がわかってしまうものだ。最初に目を通すのは「目次」だ。章立て・節立てには設計者のシステム観が反映されているし、それらのタイトル表現からは言語的センスが透けて見える。目次の次にそれぞれの内容をざっと見て、極端に詳細な部分と概略な部分が混在していたりすれば、設計者が構成的なバランス感覚に欠けているか、何らかの不都合を隠そうとしている意図があるかのどちらかを予想できたりもする。

 アイデアのまとまりを意図的に切り出して、それを編集されるべき構成要素として操作する。そこらへんのセンス(構成力)の良し悪しが、複雑膨大な設計情報の「構造の妥当性」と「内容の妥当性」とに同時に影響を与えている。

 だから、設計結果のレビューは想像以上に簡単だ。「まとまりが悪い」と思えるようならばアウト。それも、設計情報のまとまりが良いか悪いかなんてことはシステム設計の専門家でなくてもある程度はわかってしまうから怖い。システム設計は専門技術ではあるけれど、その技術の巧拙の評価については、相当な部分が専門性の外に開かれている。ミュージシャンの演奏技術が専門性にもとづいているけれど、「心地よいかどうか」に関してはど素人でもわかるようなものだ。

 もちろん専門家同士でなければ評価しあえない部分はどんな専門分野にもあるが、それだけで完結している世界は健全ではない。専門家からだけでなく「素人さん」からも簡単に値踏みされ得る。そのような覚悟と緊張感を持ち続けたい。

|

« 詳細設計とコーディングの融合 | トップページ | MIDIソフト「ソルファノート」公開 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「設計情報の構造」に現れる設計品質:

« 詳細設計とコーディングの融合 | トップページ | MIDIソフト「ソルファノート」公開 »