2017.10.16

「わかりやすさへのこだわり」があるか

■性格の良さでも読み書きそろばんでもなく

 業務基幹システムの設計担当には「創造性」が求められるという前回記事に続いて、職業適性についても書いておこう。前回書いたように、ミュージシャンとしてメシを食うための適性としては「人並みでないリズム感や音程感覚」が求められる。ではシステム設計という専門職でメシを食ってゆくためには、どんな「人並みでない適性」が要るのだろう。

 そこらへんについて、「相手の話を傾聴できるか」とか「まわりがその人といっしょに仕事したくなるか」といった性格的側面が語られたりするが却下される。なぜならそれらはシステム設計でなくても、他人と関わる職業においてふつうに求められる社会性だからだ。他の職業では問題にならないかもしれないが、システム設計の仕事でそれが欠けていては致命的――そのような適性が示されなければいけない。

 昔から、仕事に必要な基本技能として「読み書きそろばん」と言われてきたが、これが答なのだろうか。課目で言えば国語、英語、算数(数学)あたりが合格点、ということだろう。たしかにそれらを身につけているとしたら、専門職を担うための適性を持っているといえそうだ。

 言うまでもなく、システム設計でも「読み書きそろばん」は求められる(しかも相当高いレベルで)。しかしそれだけではない。「読み書きそろばん」はたいていの高度専門職で求められるが、たとえば看護師にはそれ以外に「他人の心身の状態を察知する能力(empathy)」が求められる。「読み書きそろばん」は当然として、それ以外に職業毎に独特な適性の有無が問題になる。システム設計者にとってそれは何なのか、という問いだ。

■わかりやすさへのこだわり

 「わかりやすさへの人並みでないこだわり」を持っているか――これが私の答えだ。取り沙汰されることはほとんどないが、この特性は「ミュージシャンにとってのリズム感・音程感覚」、「料理人にとっての味覚・嗅覚」のように、一定以上に天賦のものではないかと私は考えている。「わかりにくさに対する強い不快感」、あるいは「わかりやすさに対する強い喜び」を感じるかどうか、と言い換えてもいい。

 なぜ「わかりやすさへのこだわり」が求められるのか。ようするに設計成果物の情報量が半端でないからだ。わかりやすさへのこだわりがなければ、システムの開発・保守において莫大な無駄が生じる。簡にして要を得た表現を高速に生み出せなければ、限られた時間で仕事が終わらない。そしてなによりも、膨大な成果物全体の姿が明解に示されなければ、設計の妥当性が見えてこない。したがって、この適性はシステム設計者には求められるが、料理人やミュージシャンや看護師には求められない。建築士には求められるがシステム設計者ほどには求められない。同等のレベルで求められるとすれば「編集者」のような仕事だろう。

 そんなこだわりがあっても、けっきょくは「自分にとってわかりやすいもの」にしかならないのではないか。そのように思われるかもしれないが、そうではない。「わかりやすさ」を目指す方向性には「わかりやすさとは何か」の探求が含まれるからだ。必然的に、不特定多数にとってのわかりやすさが意識される。自分が生み出したものを客観的に眺めるための「他人の目」を持っているかという問題でもあって、これは適性によるところが大きい。

 なお、設計成果物のわかりやすさは、設計方法論によってある程度は補完される。システムの部分を的確なモジュールとして切り出すための手順、データ構造を関数従属性にもとづいてブロック化するための手順等、いろいろな手練手管が存在する。また、専用のエンジニアリングツールを使えば、膨大な情報量を構造化するための洗練された枠組みやクロスレファレンスの機構が提供される。

 しかし、それらのスキルやツールを使いこなすためには、そもそも「あの手この手を使ってわかりやすくまとめたい」という切実な動機がなければいけない。また、設計を支援する専門的な枠組みがあるとしても、その上でまとめられる成果物の最終的なわかりやすさの上限は、設計者のこだわりで規定される。設計図面の端正さ、日本語表現の的確さといったさまざまな価値が、カジュアルに行使される「わかりやすさへのこだわり」によって強化される。

■適性を判定する

 では、採用候補者が「わかりやすさへの人並みでないこだわり」を持っているかどうかを判定するにはどうしたらいいのだろう。ものすごく簡単だ。かれにその場でややこしい内容について語ってもらったり、論述してもらったり、ホワイトボード上で図解してもらえばいい。それらの「成果物」のわかりやすさは、素人でも判定できる。与えられたメロディにその場で綺麗にハモるには適性が要るが、綺麗にハモれたかどうかは素人でもわかるのと同様だ。ようするに「わかりやすいかどうかはわかりやすい」のである。

 こういったことを提案すると、「この業界のどこにそんな逸材がいるだろう」と反論されるかもしれないが、それでも私は言いたい。この業界のどこに優れたシステム設計があるだろう。それがこれほど稀なのは、適性のある人材を見つけて育成する企業努力が足りないからではないのか。業務システム開発プロジェクトの成功率は3割に満たないと言われているが、失敗原因のほとんどは「設計の劣悪さゆえ」というのが、私の実感だ。ところが、設計が劣悪であることも「わかりにくい」ため、失敗したのはプロジェクト管理上の問題とされる。かくして管理資料が際限なく増え、PM技術のセミナーが今日も繁盛する。

 それにしても、選別のハードルが高すぎて人材が見つからないのではないか(なにしろ創造性まで求められてしまうのだから!)。心配は要らない。良い待遇を示して応募者を増やせばよい。設計品質が劣悪であれば、ユーザ企業の業績が悪化したり、デスマーチで心身を壊す技術者が続出したりする。その社会的な影響や責任の大きさを考えれば、システム設計者の待遇が良いことは自然なことで、金の草鞋(わらじ)を履いてでも探し回ったほうがいい。

■技術組織としての姿勢

 ラッキーなことに、必要な人材は稀少だが、数多く確保する必要はない。現代的な開発環境を使えば、少数精鋭で開発案件をまかなえてしまえるからだ。実装専任が要らないので、一昔前のような人海戦術や外国の安い労働力に頼る必要もない。業務システム開発の専業会社として、少数の良質な案件を丹念に扱えば、継続的利益を確保できる。

 ただし設計の現場では、貴重な「わかりやすさへの人並みでないこだわり」を生かせる態勢が敷かれなければいけない。そのためにまずはExcel等の汎用ツールで設計書をまとめるのをやめて、専用のエンジニアリングツールを導入するか自社開発したほうがいい。なぜなら、たとえそれぞれのExcel方眼紙の内容がわかりやすいとしても、システム全体の姿が見えにくいからだ。わかりやすさへのこだわりを持つ人にとって、そんな態勢は耐え難い。どんなに努力しても「わかりやすいものを生み出した愉悦」を味わえないからだ。

 そういった選別や職場環境の工夫を怠ったゆえに、「ミュージシャンや料理人や看護師のように、人並みでない適性が求められる」という当たり前の事実が、これまで見逃されてきたのではないか。リズム感と音程感覚のない要員に、音楽収録の現場でチューニングのズレたギターをかき鳴らすようなことを許してしまっていたのではないか。そんな無神経な業界に魅力を感じる若者がどれだけいるだろう。

 俯瞰して眺めれば、「企業としてどう稼いでゆくか」と「自分の適性をどう生かすか」のせめぎあいの問題である。もちろん、適性が厳しく問われない職場があってもいいし、必要だ。しかしそこで働くうちに、「自分の本来の適性に応じた仕事」の選択肢が年々目減りしてゆくことは知っておいたほうがいい。自分の個性を把握して、それをお金に変換する手段を若いうちに見つけよう。それはシステム設計の仕事ではないかもしれないが、出会えた者はほんとうにほんとうに果報者だ。

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