2017.04.27

文章術:「改行」を自覚的に用いる

 システム開発の仕事では大量の文章を書くことが避けられないわけだが、文章について最近気になっていることを記しておきたい。文章中の「改行」の扱いについてだ。これを意識的に扱うことで、大人っぽい文章を書けるようになるだけでなく、設計フェーズで求められるセンスが効果的に鍛えられる。

 最近、ある趣味の集まり向けに、次のような短文を書いて担当者に渡した。内容は重要ではないので、文の登場順に数字の羅列として各文が示してある。

111111111111111。222、22222222222、2222222222222。3333333333333333333333333。

444、444444444444444、444444444444444444444444。55555555555555555555。6666666666666。77777777777、77777777777777777。

 するとこの文章が、次のように不思議な位置で「改行」された形で編集されて返ってきた。

111111111111111。
222、22222222222、
2222222222222。
3333333333333333333333333。
444、444444444444444、
444444444444444444444444。
55555555555555555555。
6666666666666。
77777777777、
77777777777777777。

 なぜわざわざ編集したのかを尋ねてみると、「渡辺さんの文章はわかりやすいのですが、長いので読みやすくしました」と説明された。パラグラフ中で3~4個ほどの文が連続していることが「長い」と感じられた原因のようだった。

 「読みやすくした」と言われて、さすがに考え込んでしまった。上掲の最初の文章に改行をやたらと入れることで、読みやすいと感じる人もいるかもしれないが、かえって読みにくいと感じる人もいる(私は後者だ)。ひとによって身体の大きさは違っているにもかかわらず、特定のサイズのベッドに横たわってはみ出た部分が切り落とされ、足りない場合はベッドのサイズに合うまで引っ張られる。そんなギリシャ神話の逸話を思い出した。

 そんな乱暴な意図がなかったにせよ、私にとって「改行」は「ま」とか「、」とか「山」のように意味のある文字だ。「改行」が挿入されたり削除されることには、「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました」を「むかしむ、かしあると、ころにおじいさんとお、ばあさんがすんでいました」などと勝手に編集されるのと同程度な違和感がある。

 これに関して私はつねづね、自分の意見や主張を出来る限り「論述」したいと考えている。論述とは何か。文字が意味的なまとまりとして集まったものが「文」で、文の意味的なまとまりが「パラグラフ」で、パラグラフの意味的なまとまりが「節」で、節の意味的なまとまりが「章」である。これらの要素を駆使して構造化された主張のまとまりが「論述文」である。

 それらの構造の中で基本的な役割を果たすものが「パラグラフ」で、その区切りは「改行」によって示される(*1)。そして、パラグラフの最初の文はとくに「トピックセンテンス」と呼ばれる。トピックセンテンスだけを拾い読みすれば、短時間で主張の概要を理解できる――そのように構成されなければいけない。その意味でパラグラフは「アイデアの基本単位」であり、それらが統合されたものが論述文である。そういうわけなので、自分が書いた文章の改行が勝手に編集されるとギョッとする。他でも何度か同じような経験をした。

 パラグラフを用いて端正に論述することはもちろん簡単ではないのだが、私は機会をつかまえて論述したいと思う。なぜなら論述スキルは、良質な論述文を大量に読むことと、そしてなによりも論述することの実践を繰り返すことでしか身につかないからだ。

 たとえば私は「複合主キー」に関する主張を、次のような文章で示そうとは思わない。

「ID」のような単独主キーだけを使うDB設計手法があるようです。
じっさい、いろいろなところでそのようなDB構成を見たことがあります。
ネット上の記事を眺めると、単独主キーのみ使うべしと考える技術者と、複合主キーを許容すべしと考える技術者との間には、
なにやら宗教論争みたいなことが起こっていますね...
この問題をわれわれは、
怨念のこもった宗教論争ではなく、具体的なデータ要件を
表現できるかどうかの実務レベルの問題として捉えるべき時が
来ているのではない
でしょうか...
あくまでも個人的な感想ですが...

 けっきょく何が言いたいのかわからない。やたらと入る改行の意図がわからないし、主張が明確でないし、視覚的にも整理されていない。ネット上ではこんな調子の「ユル文(論述していないユルい文章)」をしばしば見かける。その手の表現ばかりを読み書きしていれば、論述することの意味も、改行の重大さもわからなくなってしまうかもしれない。

 また悪いことにユル文は、同じような主張を持つ人に意外と受け入れられやすい。なぜなら、論述文を書くことも読むことも、それなりにメンドクサイからだ。自分の意見になんとなく沿っているようなユル文ばかりを拾い読みして、自分の意見を強化する。ネット上の膨大な活字情報をそのようにしか使えないのはもったいない。むしろ、「同意見のユル文」よりも「反対意見の論述文」をじっくり読むほうが思考の訓練になる。

 言うまでもなく、ユル文が総じてダメという話ではなく、それしか生み出せないのはさみしいという話だ。「ねこふんじゃった」しか弾けないピアニストのようなもので、多くの人々に愛される曲だとしても、そればかりではさすがに芸がない。論述力があれば、気軽なエッセイも重厚な論文も書ける。知的活動の幅が桁違いに広がる。

 だから、何か込み入ったテーマについて主張したいのであれば論述してみたらいい。端正に論述できなければ、あなたの意見のどこかに疎漏があると考えていい。長すぎず(練られた文章は短い)、主張と根拠をバランス良く含み、意味的な構成感と視覚的な律動感をともなっている。そんな文章を組み立てる過程が、書き手の構成的センスを鍛える。それはシステム設計の現場で必ず役に立つ。そのために、まずは「改行(パラグラフ)」に意識的になるところから始めてみてほしい。


*1.このブログでは、「改行2文字+空白文字」の組み合わせでパラグラフが区切られている。いっぽう書籍ではふつう「改行1文字+空白文字」で区切られるが、それだとブラウザ上ではなんとなく読む気がおこらない印象を与えてしまう。なお、日本語の「段落」はもっとブンガク的なまとまりなので、パラグラフとは別モノと考えたほうがいい。

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